くろねこ先生波乱万丈物語 第2話

あなたが、ふと自分の人生を思い返してみた時、自分が主人公の話はどんなだろうって思い描いてみたくなるかもしれません。今夜もまた、眠りにつく前に くろねこ先生波乱万丈物語に付き合ってみませんか?くろねこの話を聞きながら、あなたも「あの時のあなた」にまた出会い、「なあんだ自分は自分でよかったんじゃない」なんて思うかもしれません。そんな自分再発見のんびり心の旅、ぜひ一緒にお楽しみください!

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「レッテル」を張られた子供と「変わった」が嫌いな大人達

感情の起伏が激しく1+1=2をどう理解したらいいのかわからなかった私は、かなり算数音痴のまま成長していった。算数音痴、しかも感情の起伏が大きい子供というのは、一般的に「おバカさん」と見られてしまうことが多いんだろう。最近は児童心理学も進み情報もたくさんあるので、子供の発達をいろいろな視点から見てあげられることができるような社会に、少しずつだがなってきている。私の時代は今の状況の前段階だから、いろいろな視点から子供の発達を見れるようになってる大人はいたけど、それを一般の認識とすることはまだ社会が認めなかった。だから、そういう子どもの性質を受け入れ認める大人も、また「変わってる」大人ということになっちゃうわけである。したがって、「常識のある大人」と思われていた人は、そのステイタスをどうしても破りたくなかったので、私みたいな子供は、たいてい「おバカさん」のレッテルが張られた。

 

「変わってる」先生たちがもたらしたインパクト

今思い出したが、この時の社会の教育への認識を物語ってる人気ドラマシリーズがあった。月並みだけど3年B組金八先生だ。金八先生ドラマは初放映が1979年、私がまだ8歳の時だっったので私が最初のシリーズを見たかはわからないが、小学校高学年の頃はもう毎週見ていたと思う。自分が社会にあまり適応できていなっかったので、金八先生がどんな問題を起こす生徒であっても身体張って守り、全情熱をかけて生徒たちを教え育んでいこうとする姿に、子供ながらに感動したのを今でも覚えている。

で、ここで言いたいのは、私の時代では、そういう熱血先生が「変わってる」大人だと思われていたのが、このドラマによく反映しているってことだ。金髪先生の職員室でも、その熱血がゆえに金八先生がほかの先生に責められたり馬鹿にされたるするシーンが結構あった。で、この責めてるほうの先生はいつも’「自分だって本当は生徒の気持ちを一番に考えてあげたいけど。。。それをやったら自分の地位が危うくなる」姿勢だったてことだ。これが70~80年代、秩序だった厳しい社会で生き抜いてきた世代の一般的な心理模様であったんだろう。金八先生のドラマは学校の職員室の人間模様でも同じだったのを物語っている。

とは言ってもこれはただのドラマで、「あれはただのバカヤロー青春ドラマ」なんていって、金八先生の現実味を認めない人もいるが(っていうかそういう人がほとんどだろう笑)、くろねこ先生はここで言いたい。金八先生は確かにかなりドラマチックところもあった。中学生が学校を大破壊しようとしたり、女子生徒が妊娠したり。あの時代、そういうドラマはかなり刺激が強く、「あのドラマが出るまでは日本の中学生はもっとまじめだった、実際にはあのドラマが日本の中学生の非行化を急速に促した」なんて誰かが言っていていたのをどこかで聞いたこともある。だけど、だ。日本だけではなく、今、どこの先進諸国でも児童心理学が進み、日本でも速度はゆるやかだけどそれが社会全体で認識されつつある。「いろいろな子供のことをわかって認めてあげよう」の社会を作るきっかけが、これまで日本社会にもたくさんあったとすると、金八先生が日本社会にもたらしたインパクトもその一つになっていたんじゃないかと思うわけなのである。

「子供に添う教育」の貢献

そういうインパクトをくれたものはきっと、その時代の流れにのって本当にたくさんあると思うけれど、もう一つ思い浮かんだ。これは私が後に大学で初等教育を勉強した時のバイブルになったが、灰谷健次郎の小説、中でも心に響いたのが 兎の目(1974年初版 )これは神々しすぎる小説だった。映画化もされてかなり有名だが、これを読んだときは、灰谷健次郎の子供に対する本当に真剣な眼差し(って書くのがすごく適当のように思える)にびっくりして「自分みたいな人間的にできてない人間が子供を教えたりしていいんだろうか」なんてちょっと後ずさり気分になったのを覚えている。この小説を私は大学生になってから読んだけど、この作品が発表されたのもちょうど金八先生のドラマが始まる5年前である。灰谷健次郎はその後も、世間の知るように、「子どもに寄り添った」人々の心に響く小説をどんどん出したが、灰谷健次郎はまさしく その「いろいろな子供のことをわかって認めてあげよう」社会の認識作りに貢献した著名な作家の一人だったということは、私だけではなく みんなが思うところだ。

不思議ちゃんとその家族の切なきバトル

話がだいぶそれたが、つまり私は、周りの大人から見ると、かなり「おバカな」「変わった」「不思議ちゃん」だったわけで、不幸かな、まだまだそういう子供を理解してあげようという風潮が始まるちょうど前の時代に、小学校低学年時代を過ごしたわけなのである。私は、本当によく怒ってよく泣いたと思う。今でもその時の切なさが心に残っている。自分が感じることがあるのに、それをうまく伝えられない。怒って癇癪を起す。「もう、すぐそうなるんだから」と言って親がいらいらする。それを聞いてもっと怒って物を投げる。「恥ずかしい!」と親が言って軽蔑の目で自分をみる(と感じる)。親に嫌われていると感じて、もっと感情的になる。すると「しつこいからあんたは嫌なの!」と容赦ない。と、まあほぼ毎日がこんなだったような気もする。

ほんとは、このブログ書くにあたって、あまり家族のことには触れるべきではないと決めていたんだけれども、私の波乱万丈物語はこのバックグラウンドを書かないと、先の話を書くのは難しいので、ちょっと触れておく。つまり、この社会でたくさんの方にそんなつらい思い出があるように、幼いころの私の家族体験も、ちょっと辛かったのである。親の不仲(というより、本当は仲が良かったのかもしれないが、とにかく感情的なケンカが毎日あった。)父の短気、 経済的な困難、そして何より、兄と姉の不仲であるーというよりも、末っ子の私は生まれた時からこのかた、この二人が言葉を交わすのを一度も見たことがない。家の中は暗い雰囲気だった。楽しいことや心がワクワクすることもあったに違いないが、それでも普通に仲がいい家族とは明らかに違っていた。家族が不調和の中では親も子供も心を豊かにできる対話はできなかった。

ここで、「だからくろころねこ先生の幼少時代は可哀そうだったので、彼女の人生は暗黒でした」ときっと私が書くだろうから「ばっかみたい」と思ってるあなた、残念でした。みなさん、多かれ少なかれそんなつらが思い出があって、それを乗り越えて頑張ってこられ、きっと平和で安定した人生を手にいれられた方のほうが多いのだと思う。そういう人をいつもすごいなって尊敬している。くろねこは、乗り越えようとはせずに…ずっと「私だけがなんでこんな思いをするか!敵はこの世界だ!」と叫んで… 戦闘態勢の人生を歩んできちゃたわけなのだ。だから波乱万丈なのである(笑)。

それでもわくわく戦闘モード

「いつか、この心の暗さを感じることが多い家を出て、自分が自分の幸せを手にするために、自分のことが嫌いな世の中のありとあらゆるものと戦って勝たねばならない」と戦闘モードにスイッチが入っていまったわけだ。

しかし、勝つには頭脳が足りなかった。だって算数ができないんだから(笑)!それにこんな具合で、感情が激しい上に、人の心もわからず、ものすごい強気だったから、友達もいなかった(というよりかなりいじめられていた)。

けれども、そんな私にも実は大きな武器があった。それは小さい頃から、そんな現実から逃避をして自分の心の世界に入るためにフル回転で使い込んできた’想像力’である。

次回はくろねこ先生がこの想像力を使って、どんな小中学校時代を送ったのかのお話。またみてね!

こんなお話もあるよ!

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