裸足のおしゃべり

すばらしく晴れた秋の土曜日の朝、Bewrick(ベリック)という町にあるWilson Botanic Park(ウイルソン植物公園 ウエブサイトへのリンクは記事の最後にあります) という森林公園を散歩した。

Wilson botanic Park, Berwick の売店 “Gather”。 Photo by Kuroneko

くろねこがいつも歩くコースは、若い女の子たちが共同経営している”Gather(一緒)”という小さいけどおしゃれな売店から始まるので、そこでいつものように Chai latte(チャイラテ)を注文して、カウンターの横でできるのを待っていた。ここでChai Latteを買ってそれをを片手に散歩を始めるのが好きなのだ。

売店でLatteができるのを待ってると、若いカカップルが、赤ちゃんをベビーカーに乗せてやってきた。メルボルンならどこのカフェでも見られる土曜日の朝の風景だ。ヒョロリとした毛もくじゃらの若いパパはヒッピースタイル、寝起きにさらッと履いてきたのだろうボーダーパンツは少し下がり気味で、背中とおしりの隙間から結構大きなタトゥーがのぞいていた。ママもヒョロリとしていたがこちらはサラサラサラ髪にTーシャツとスエットパンツで小ざっぱりした格好をしていた。赤ちゃんはよちょよち歩きだろう、1歳になるかならないかくらいのきれいなブロンド髪の女の子の赤ちゃんだ。赤ちゃんもピンクのトップスに黒パンツのこれまた小ざっぱりルックスだ。

Photo by Megan Lee on Unsplash

パパは、赤ちゃんを抱いてベビーカーからおろすと、支えてあげながらそっと立たせた。そして赤ちゃんを安定させるとそっと手を放し、自分は数歩下がった。そして赤ちゃんに向かって

“Heeey”

とオージーパパ特有の優しい声をかける。

赤ちゃんはパパの顔を一瞬不安そうに見たが, パパが “Come on”と優しく言うと、よちよち一歩二歩と進んだ。パパは今度は、これまたオージーなまりで

“Yaaaay”

と小さく歓声を上げて嬉しそうに笑った。赤ちゃんもすばらしい歩行を披露してご満悦だ。それを見ていたママも”Hehehe”とうれしそうに笑う。

何気なくそれを眺めていた自分もほっこりした。ふと見ると、赤ちゃんは靴は履いておらずソックスのままだった。パパが赤ちゃんを立たせたコンクリートの上には誰かがこぼした何かが染みて変色していた。パパもママもそんなことは気にしないし、それが何の変哲もないメルボルンののんびりした光景だ。

けど、今日はちょっと思った。きっとこういうのは日本では、危ないし、ちょっと不衛生ってことになるんだろうなあ。

Photo by Katie Emslie on Unsplash

そんなことを考えていたら、ふと30年前オーストラリアに移住してきたばかりの頃のことを思い出した。

くろねこがオーストラリアはメルボルンに移住してきたのは 1996年の1月、メルボルンは夏真っ盛りであった。もう30年近くも前のことだ。オーストラリアについてからしばらくマックスという生粋のオージーおっちゃんの家を間借りしていた。マックスの家は、海辺の高級住宅地ブライトンの隣にあるGardenvale(ガーデンベール)という小さな町にあった。小さい町だが、土地がら、さほど大きくはないが石造りの伝統的な英国式住宅が、美しいカエデの木立がゆったりとしたストリート沿いに並んでいるとってもチャーミングな町であった。町の商店街もとっても小さくひっそりしていたが、どことなくおしゃれ感を漂わせていた。

オーストラリアは夏時間を導入しているので夜は長い。9時になるまで日が落ちない。日本から来たばかりの私にとっては、それは結構びっくりすることであった。

ある日の夕方、足りないものがあったのだろうか、マックスの家から商店街に向かって歩いていった。徒歩10分程の距離であったろうか。30年前、メルボルンの人口は今の3分の2ほどしかなかっただったろうと思うが、とにかくメルボルンは今のように忙しくなかった。特にガーデンベールみたいな小さな町は昼間も夜も結構ひっそりとしていたのだ。だが、それでも熱かった日の夜には、人々が外に繰り出してくる。日中の熱い日差しを避けて家の中でひっそりと過ごした人たちが、日が落ちて少し気温が下がると涼しい風を楽しむために散歩に繰り出してくる。のんべはビールを買いにボトルショップ(酒屋)に、主婦は次の日の朝のミルクとパンを買いに、あんちゃんたちはジョギングをして町を横切る。

Gardenvale 駅前 (Sandringham line)

夕方とはいっても、時間はもう8時過ぎ。「人々が繰り出してきた」とは言っても、日本の商店街のような活気は全くない。人々は別段立ち止まって話をするわけでもなく、どういうわけだか町は静かだった。電車はレンガで建てられた古い橋の上を通って、シテイで遅くまで働いていたのであろうごく数人のオフィスワーカーを乗せて戻ってきた。けれどなぜか電車のアナウンスの音も機械音も聞こえることはなく、じわじわと静かに広がる夜の闇に心地の良い涼風が溶け込んで、そこを人々が静かに歩いているという、何か言いようもないノスタルジックな雰囲気をかもしだしていた。美しい夕焼けはホリゾンの隅に追いやられ小さなルビーのようであった。

もうすぐお店につくというとき、ふと気が付いたことがあった。

すれ違う人たちが、靴を履いていないのだ。

おっちゃんは短パンからけもくじゃらの足と素足を披露しながら両手に買ったばかりのワインを大切そうに持って歩いている。ここから15分も歩けばたどり着く夕方のビーチでさっきまでゆっくり過ごしていたのかもしれない。暑い日だったので、仕事なんか早々と済まして家に帰ってくるとすぐにビーチに行ったのだろう、メルボルンの海辺の町ではよくみられる光景だ。一日の締めくくりは、やっぱりワインである。

女の子と男の子は小学生低学年ごろだろうか、パンとミルクを持った母ちゃんと「きゃッきゃッ」言いながら楽しそうに歩いていた。明日の朝ご飯の食材がないのに気が付いて、散歩もかねて買い物に来たのかもしれない。よく見たら、子供は二人ともパジャマ姿であった。髪の毛も洗い立てのようだったので今夜はシャワーももう済ませたらしい。8時近くだった。後から知ることになるのだがオーストラリアでは、教育意識が高い家庭の子供は通常7時にはベッドに送り込まれるのだが、あの時はちょうど夏休みの真っ最中。家庭の時間もゆっくりと流れていたのかもしてない。

この子供たちも素足であった。

日本から来たばかりだった私は、「え、お家に帰ったらやっぱりあの足のままでベッドにもぐっちゃうのかな?」とつい思ってしまった。だって、オーストラリア人が足を洗ったり拭いたりして家に入るとは、到底思えないのだ。まだこの国に来たばかりだったが、「日本の常識」はほとんどのことにおいて日本特有だったことを、もうすでにちょっとだけ感じ始めてもいた。違う国に住んでると、「世界の他の国ではこうだけど、日本だけが違う」っていうようなことを知ることも多い。つまり「日本の常識」は「世界の常識じゃないよ」を思い知らされることも多いんだ。

そんなことを何となく考えていたら、突然、なぜだか自分も靴を脱いで歩いてみようと思いたった。

買い物を済ませて店を出ると、私は早速サンダルを脱いで片手に持った。

裸足なんかで歩いたことがないコンクリートは、私にとっては少しヒンヤリとしていたし、なかなかのごつごつ感で、「何か踏んでケガしちゃう」なんて思ったりする。1歩2歩と、ドキドキしながら慎重に歩いてみる。あたりはすっかり薄暗くなっていた。カラリと乾燥しているけどモワンとした風が何となく心をゆっくりさせる南半球真夏の夜。時間が更けるにつれてお酒を片手に鼻歌交じりのおじさんも増えてきた。心なしかみんなすでに鼻が赤いような気もするちょっと遅れたHappy time.

Photo by Lucas Sankey on Unsplash

そんな人々を観察しながら、ぎこちない裸足で家の方向に向かって歩き出した。町のはずれのお店を通り過ぎようとした時だ。やっぱり素足のヒッピー兄ちゃんが野菜の袋を下げて店から出てきて、私と反対方向に歩きだしたので自分とはちあわせになった。私は裸足で歩いているのを見られるのが恥ずかしいこともあって、「最近よその国からやってきたものデス。英語は話せません」という雰囲気をかもし出して小さくなって通りすがろうとした。けれどヒッピー兄ちゃんは別段気にする様子もなく、すれ違い際に声をかけてきた。

“Beautiful night, Hah?” (いい夜だよねえ)

わたしは顔を上げて彼の屈託のない笑い顔をのぞいた。本当に何気ない挨拶であったが、それは、なんだろう、その瞬間を共有して楽しんでいるような、それでいてお互いの気分を干渉しているわけもなく、何とも言えないオーストラリア人独特ののんびり感なのだ。

わたしは何だか愉快な気持ちになって、にこりと笑顔を返した。

だったこれだけのことであったが、なんだか少し気持ちが軽やかになったような気がした。何のことはない、オーストラリア人にしてみればただの日常挨拶であったのだろうが、その挨拶風景に自分も加われたわけなのである。この土地に来たばかりの私にとっては、まったく素朴な心ほっこりな場面であった。

私はそれから、これからのオーストラリアでの生活がどんな風になるのだろうとあれこれ思い浮かべながら、夜のガーデンベールの町を、慣れない裸足でゆっくりと歩いて家路に向かった。

あれから30年近くもたって、オーストラリアの町の風景もすっかり変わってしまったような気もするし、オーストラリア人ののんびりとした雰囲気もだんだんなくなり、確実な経済成長にのってみんな忙しく働き、せわしない感じになってきた。人々が町の中を裸足で歩く姿ももうあまり見ることもなくなってきた。

けれど思うのだ。

裸足でその土地に立つ、というのは、たとえそれがコンクリートの上であっても「この土地になじんでこの土地の人々と繋がる」みたいな、そんな自分の想いを自分自身で認識するっていうことなのかもしれない。オーストラリアの幼稚園の子供たちは、先住民アボリジニが大切に敬ってきたその大地を裸足で踏みしめて遊ぶことで、アボリジニの想いを「感じる」。先住民も外から来た民族も、その土地を共に踏みしめ、そこに共存していることを感じ、ともに大地に感謝をする。オーストラリア人のフレンドリーで屈託のないオープンな文化は、そんな先住民の大切な心を自然と受け継いでいるところもある。

公園で見かけた靴下足のヨチヨチ歩きの赤ちゃんは、街中では裸足で歩かなくても、やっぱりこれからも裸足で自分の家の庭や公園の芝生の上を駆け回り、お父さんやお母さんにのんびりと見守られて大きくなっていくんだろうな、って。のんびりとしたオーストラリの家族の風景がこれからもずっとあってほしいな、って、そう思うのである。

誰も知らない小さなメルボルン探訪、次回もお楽しみに!

Wilson Botanic Park

Wilson botanic Park, Berwick、Trail map

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